差別ではなく、
区別する力を持つということ
自由を語る人が、
必ずしも自由であるとは限らない。
平和を語る人が、
必ずしも穏やかであるとは限らない。
正義を語る人が、
必ずしも誠実であるとは限らない。
むしろ、
自由や平和や正義という言葉を掲げながら、
自分と違う意見を許せない人がいる。
自分の非を認められない人がいる。
責任を他者に押しつける人がいる。
都合の悪いことから目を逸らす人がいる。
そして、
若い世代を危険にさらしても、
なお自分たちの正しさを守ろうとする姿がある。
そういう場面を見ていると、
どうしても、
人としての成熟とは何なのか。
そう考えさせられます。
それは思想の問題というより、人としての成熟の問題なのだと思います。
どれほど立派な言葉を掲げていても、
表情に出る。
言葉に出る。
動きに出る。
行動に出る。
攻撃性。
独善性。
他責性。
歪んだ正義感。
そういうものは、隠そうとしても隠れないのだと思います。
数年前、
感染症が広がっていた時期に、
当時指導していた選手たちへ、
こんな話をしたことがあります。
「これから身近なところで、
訳の分からないことがたくさん起こると思います。
その時に、
感情的に巻き込まれないでください。
よく見てください。
冷静に見てください。
そして、自分はどうあるべきかを考えてください。」
いま、
あらためて同じことを感じています。
学生の皆さんには、
こういう見るに耐えないものを、
できるだけよく見ておいてほしい。
そして、
反面教師にしてほしい。
大人になったからといって、
人が成熟するわけではありません。
年齢を重ねたからといって、
責任を引き受けられる人になるわけでもありません。
むしろ、大人になりきれないまま年齢だけを重ねた人たちが、
社会の中で大きな声を出し、
若い世代を巻き込み、
時に取り返しのつかない事態を招いてしまう。
そういう現実もあるのだと思います。
もちろん、
差別をしてはいけません。
人を属性や立場だけで決めつけ、
一方的に価値を下げたり、
切り捨てたりしてはいけない。
それは、
絶対に避けるべきことです。
けれど、
状況に応じて区別しなければならない場面はあります。
何を言っているのか。
何をしているのか。
責任を引き受けているのか。
他者を危険にさらしていないか。
若い世代を巻き込んでいないか。
そこを見ずに、
ただ「分かり合うべきだ」と言うのは、
優しさではなく、危うさでもあると思います。
人を属性で切り捨てることはしない。
しかし、
その人の言動や姿勢を見て、
近づくべきか。
距離を取るべきか。
任せてよいのか。
巻き込まれてはいけないのか。
そこは、
冷静に見極める必要がある。
差別ではなく、区別。
それは、
誰かを攻撃するためではありません。
自分と、身近な人と、
これからを生きる若い世代を守るために、
必要な判断なのだと思います。
だからこそ、
区別すること。
近づきすぎないこと。
巻き込まれないこと。
そして、
自分はそうならないと決めること。
誰かを攻撃するためではなく、
自分自身の姿勢を問い直すために。
このような状況が、
少しでも減っていくことを祈りながら。
わたし自身も、
現場で出会う選手たちと、これからも真摯に向き合っていきたいと思います。
気づいた人から、変わり始める