「おい、おまえ!」
「何やっているんだ!」
スポーツの現場では、
こうした強い言葉が飛ぶことは珍しくありません。
バスケットボールに限らず、
競技スポーツの世界では、
厳しい指導、強い要求、強い圧が、長く存在してきました。
集中が高まる。
迷いが消える。
結果が出ることもある。
だから、これは単純な善悪では語れません。
強圧は、速い。
しかもそれは、
時に機能するどころではなく、
現実にはかなり機能してきた。
だからこそ、
この問いは難しいのです。
しかし、
それでも考えたいことがあります。
怒号や煽動、
強い圧に頼らなくても、
闘争心は育てられるのか。
それでも燃えられること。
それでも闘えること。
そんな世界は、つくれるのか。
これは最近、
わたしが考えている問いのひとつです。
インテグリティが語られる時代に、
「そんなことは当たり前だ」と言われるかもしれません。
あるいは、
理想論だと言われるかもしれません。
ただ、現場では
いまだ簡単なことではないとも感じています。
強さとは何か。
厳しさとは何か。
この問いは、
思っている以上に深い。
厳しさとは、
大きな声を出すことなのか。
闘争心とは、
怒りで引き出すものなのか。
本当にそうなのか。
そもそも闘争心は、
最初から備わっているものなのか。
わたしは、
そう単純ではないと感じています。
闘争心とは、
条件によって引き出され、
育ち、形成される側面がある。
つまり、
指導や環境によって変わりうる。
だから、日々それを育てようとしている
指導者の営みには敬意があります。
結果を求められる世界で、
それを行うことの難しさも分かる。
その上で、
あえて模索したいことがある。
煽らず、
騒ぎ立てず、
押しつけず。
それでも、
熱は育てられるのではないか。
これは、
「甘さ」を目指したいわけではありません。
むしろ逆です。
厳しさを手放したいのではなく、
厳しさを問い直したい。
そこに近い。
自立とは何か。
自律とは何か。
この問いとも、
深く繋がっています。
押しつけで動くことと、
自ら燃えることは、
同じではないからです。
もちろん、簡単な課題ではありません。
正直、
わたし自身の性格からしても、
容易ではないと思っています。
強く言いたくなる局面は、
きっとある。
だから理想だけでは済まない。
ただ、
難しいからこそ、
取り組む価値がある。
そう思っています。
これは、
効率の問題ではなく、
文化の問題なのかもしれません。
指導文化。
競技文化。
人が育つ空気そのもの。
その土台を、少しずつでも変えられないか。
そう考えています。
それでも燃える世界は、つくれるのか。
わたしは、
考え続けてみたい。
そして、試してみたい。
これは、
ひとつの宣言でもあります。
気づいた人から、変わり始める。