はじめに:気づかないうちに動かされている
気づけば、心が動いている-
誰かの言葉に共鳴し、思わず涙が出そうになったり、映像や音楽に感情を揺さぶられ、知らぬ間に何かを「信じたく」なっていたり…。
わたしたちは、自分の意思で動いているように思えて、実は多くの場面で、巧みに仕掛けられた「感情のスイッチ」に反応しているだけかもしれません。
それは意図的なプロパガンダだけでなく、日常にあふれるSNSの投稿、マーケティングの仕掛け、誰かの熱のある語り…。
すべてに共通する“構造”があります。
その構造に、わたしは強い興味と畏怖の念を抱いています。
感情 → 判断 → 行動 の順ではない
「わたしは自分で考えて行動している」
多くの人が、そう思っているかもしれません。
けれど実際は、
まず感情が動き、次に“正当化の理屈”が浮かび、そして行動が起こる
という順番であることがほとんどです。
これは脳科学的にも支持されている構造です。
つまり、
「なぜそう思ったのか?」
「なぜそう行動したのか?」
-その答えは、実は後付けであることも少なくありません。
仕掛けられた“正しさ”への共鳴
感情が動く場面には、共鳴があります。
たとえば-
語りのテンポ、言葉の選び方、リズムのある演出、音楽、照明、映像美…。
これらがうまく組み合わさると、わたしたちの“センサー”は大きく揺れ動きます。
しかも、それが「気づき」や「感動」として現れる場合は、なおさら注意が必要です。
それは「良いこと」「真実」だと感じられるからこそ、その共鳴に身を委ねてしまう。
気づかぬうちに、
「その人の言っていることは正しい」
「わたしもそう思う」
「自分もこの流れに乗りたい」
という“信念”に変わっていきます。
わたし自身も「仕掛ける側」になりうる
そう考えるとき、
わたしは「気づきを届けたい」と思って活動している自分自身の姿を、あらためて見つめ直さなければなりません。
静かな語り口であっても、
「良かれと思っての発信」が、
いつの間にか“導こうとする言葉”になってしまうことがあります。
正しさを主張してしまう。
共鳴を引き出すような演出をしてしまう。
その意図に、まったく無自覚でいられるわけではないのです。
だからこそ-
わたしはまずは「問い」を置くことを大切にしたいと思っています。
断言ではなく、余白を残す。
その余白の中で、読んだ人、聴いた人自身のセンサーが静かに揺れることを願います。
本当の変化は、静かに訪れる
わたしが信じているのは、
静かな接触にこそ、深い変化が宿る
ということです。
それは、わたしの実践するセンサー・タッチにも通じています。
力強い刺激ではなく、触れられているかいないかの、わずかな接触。
その中にこそ、身体が“自分自身に気づく”瞬間がある。
同じように、言葉もまた-
派手な演出や感動的な一文より、
静かな“問い”や“余韻”の中に、大きな揺らぎを生むことがあると感じています。
結びにかえて
わたしは、何かを“正す”ことよりも、
何かに“気づく”きっかけを置き続けたいと考えています。それが静かで、小さくても-
センサーが目覚める、その一瞬の“波”が波紋として大きく拡がっていくと思います。
