気づかないのが人間…やはり伝わるのは少人数…。
かといって、「わたしは違う、気づいている側の人間だ」というのは、結局選民思想になります。
自己肯定と他者肯定…そういうことも含めて、Aもある、Bもある…という軸を崩してはいけないと考えます。
とはいえ、その時に伝えるべき軸や熱が無ければ、指導は成り立たない…。
冷静さと情熱さの同居…まさに中庸。
陰陽太極図というのは、それを上手く表しているな〜と、つくづく感じます。
結局…大なり小なり、すべての不具合にセンサーエラーが絡んでいると思うのです。
本来気づくべき異変に気づかずに進んでしまう…。
気づいたときには、傷ついたり、傷つけたりしている。
それは肉体として考えても、精神的に考えても…です。

センサーとマーケティングのあいだで
こうしてブログを綴る行為そのものが、突き詰めれば“マーケティング”と呼ばれるものかもしれません。
わたしもそのことに、たびたび自己批判的な視点を向けています。
ただ、わたしが撒いているのは「洗脳」ではなく、「気づきの種」です。
気づいた人が、また誰かに“気づき”を渡せるように。
その循環のなかに、自分の言葉を位置づけたいと思っています。
中庸は“弱さ”ではない
また、スポーツという“勝負”の現場にいる人間にとって、
「中庸」という言葉は、ともすれば“優柔不断”や“弱さ”と受け取られるかもしれません。
しかし、わたしにとって中庸とは、冷静と情熱の両立を意味します。
勝ちに行く──。
その意志を手放すわけではなく、
知性によって勝ちに行くことを選んでいるのです。
これは、わたしが現場で重ねてきたセンサー・タッチとも通じています。
静かな接触にこそ、深い変化が宿る。
それを、わたしは日々、身体を通して確かめています。