静かな旗を掲げるということ
必ずしも熱狂してほしいわけではありません。
でも、同じような違和感を抱いている方が、きっとどこかにいらっしゃると感じています。
その方たちが、自分の中にある感覚に“名前”をつけられるように。
だからこそ、わたしは言葉にしてみようと思いました。
これは、「まだ言葉になっていない想い」に光を当てる、ささやかな試みです。
1.スポーツにおける「違和感」
スポーツの世界では、勝つことがすべてとされる風潮が根強くあります。
努力は勝利のためにある。犠牲は当然。指導は結果で評価される─。
もちろん勝利が最優先です。
しかし、わたしはこれまでの現場で、繰り返し違和感を覚えてきました。
本当に選手たちは、自分の身体を理解しているのでしょうか?
本当に自分の意思でプレーしているのでしょうか?
その問いに、胸を張って「はい」と言える場面は、実のところそう多くはなかったのです。
2.熱狂の構造について
現代社会では、「AかBか」といった二極化の論調が至るところにあふれています。
- 「これが正解だ」と言い切る提唱者
- その言葉を信じ、拡散し、強化していく“信者”
あたかも、教祖と信者のような関係です。
そして、そうした提唱者には、主に2つのタイプが存在すると感じています。
1. 自分の主張を完全に信じ、どんどん先鋭化していくタイプ
2. 論理的に不完全であることを内心では理解しながら、それを外には出さず語り続けるタイプ
どちらにしても、熱狂の構造が生まれ、周囲はそこに巻き込まれていきます。
3.「正しさ」よりも「気づき」
実際には、多くの方がこう思っているのではないでしょうか。
「Aの言っていることもわかる。けれど、Bにも一理ある。結局、ケースバイケースではないか?」
にもかかわらず、声の大きい“極論”にかき消され、そのような中庸の感覚は社会の中で埋もれてしまいます。
あたかも「どちらかを選ばなければならない」というような空気が、私たちの思考を狭めてしまうのです(もちろん、結論が明らかな場合は当てはまりません)。
4.「マーケティング」という名の洗脳・詐欺
ここで一つ、わたしの本音を交えてお話しさせていただきます。
昨今、やたらと「マーケティング」「営業手法」などの言葉が並びます。
「ペルソナを明確に」「共感を生むストーリーを」「感情を動かす導線を」─。
一見すると洗練された戦略に見えますが、
その本質は「まずは自論を押しつける」「気持ちよく騙せばいい」という思想に限りなく近いのではないかと感じています。
それはもはや洗脳や詐欺に近く、
「騙される側が心地よいなら、問題はない」とする態度が平然とまかり通っているのです。
メディアやSNSも、こうした構造の中に取り込まれ、「見せ方」「煽り方」「売り方」に力を注ぎすぎて、
本来伝えるべき“中身”が置き去りにされてしまっているように思います。
わたしは、その流れには与しません。
自分の言葉が、誰かの“生きていくヒント”になるためにこそ、
迎合せず、煽らず、対話を続けるスタンスを貫いていきたいと思っています。
5.自立と自律を支える側に
スポーツ指導の世界でも、依存を煽り、支配することで勝利へ導くスタイルがあります。
そしてそれを「勝利哲学」として誇る指導者も存在します。
しかし、それが選手にとって本当に良いことでしょうか?
選手は“従う存在”ではありません。
自ら感じ、考え、選び、失敗し、また立ち上がる。
そうやって成長していく存在です。
わたしが関わりたいのは、思慮深く、慎重に、自分の感覚を信じながら前に進もうとする人たちです。
そうした人々のセンサーに光を当て、支えること。
それが、わたしの願いであり、わたしのスタイルです。
6.わたしのスタイル─熱狂ではなく、語り合い
わたしの関わり方は、熱狂を生むものではありません。
むしろ、熱狂を避け、冷静に問いを重ね、対話を育むスタイルです。
語り合い、気づき合う。
その中で、お互いが「生きていくヒント」を見つけていく。
それこそが、わたしにとってのコンディショニングでもあります。
身体だけでなく、心や意識、そして生き方そのものと向き合っていく。
そうした営みを、これからも大切にしていきたいと思います。
結びに
一見、目立たないかもしれません。
けれど、自立と自律の感性に光を当て続けることが、
未来のスポーツを、そして人と人との関係を、少しずつ変えていくと、わたしは信じています。
誰かにとっての「気づきのきっかけ」となれるように─
これからも、静かに旗を掲げていきます。