どこかが痛くて治療院に行く
具合が悪くて病院に行く
成績を上げたくて塾に行く
スポーツ技術を向上させたくて教室に行く(講師を呼ぶ)
これらは、基本的にスタート時点では行く側(言いかえれば患者や生徒)の意思があります。
先生、治してください、教えてください=聞く意識があるというかたちです。
そのため、受ける側(言いかえれば医療者や講師)には立場的な優位性があると思います。
学校は…わたしが語ることではないのは承知の上で…ちょっと違うかな〜?と思います。
義務として始まりますので、その義務が終わったあとも、行かないといけないものや行くのが当たり前と無意識に捉えている人が多いと考えます。
そういうことから、良い悪いではなく、学校でのルールには基本的に従うと無意識に考えている人のほうが多いと思います。
もちろん、その辺りは多様な価値観の発生、社会的な変遷(以前に比べて保護者が介入してくる度合いが相当に増大しているなど)により、常に立場が変化しているのも事実だと考えます。
さて、わたし(+このような立場の人たち)はどうなのか?
現在行かせていただく先の多くは学校の部活動チームです。
さらにそのチームの監督から呼んでいただきます。
しかしその場で活動する主たる存在は選手たち(学校の生徒)です。
つまり状況としては、意思を持って呼んでくださる監督に対して、活動主体である選手たちにスタート時点では意思は無いということになります。
平たく言えば、
「は?お前だれ?何しに来たの?」というところからのスタートです。
立場的な優位性どころか、講師と生徒という最低限のかたちにすらならないことも多々あります(スタート時点では)。
もちろん監督の意思が選手たちにまで伝播しているチームがほとんどですが、そこは学校での枠内の活動であることから、多様な価値観のもと、部活動チームに所属しているものの、監督の意思とは大きく異なる過ごし方をしている選手もたくさんいるわけです。そしてそれは以前より増加しているのは間違いありません。
なお、ここでお断りしたいのは、そういう選手たちを否定しているわけではありません。事実や現実として述べているということです。
また、外部の人間を呼ぶわけだから、監督と選手たちの意思や行動は一致してないとおかしいでしょ?という正論も出てくると思いますが、そこは上記の様な現実の前では全く無意味です。
とにかく、そういった状況(=完全なアウェイ)からスタートし、少しずつわたしという人間を伝え、目の前の選手たちの心の声に耳を傾け…笑ったり、喜んだり、驚いたり、腹が立ったり、がっかりしたりしつつ…コミュニケーションを図っています。
毎回果てしないとも感じます。
ただ、じっくり向き合っていますと、お互いに少しずつ分かり合えていくことが多く、本当にありがたいと思います。
もちろん、その場を見ていない、触れていないにも関わらず、心ない言葉や行動を示す保護者さんもたくさんいますし、実際にそれを浴びてきてもいます。もちろんそれは、自分自身の力の無さからくるものとして、しんどいながらも受け止めています。
そんなことを考えながら…昨日のように待っていてくれる監督や選手たちがいるチームもあるわけです。
当然その日のうちに良くなります。
表情も空気も変わります。
そういったチームの選手たちは、いわゆる引退をすると、
「来てくれるたびに自分もチームもリセットできて、すごく救われました」といった言葉を残してくれたりします。
昨日も、引退した3年生がわざわざ顔を出し、手土産と気持ちのこもった手紙を渡してくれました。
本当ありがたいことだ…と、しみじみ感じます。同時に待っていてくれる人達、これまでお互いに取り組んだ人達のためにも、さらなる精進をしていこうと思うわけです。
長々と完全に自分語りのような文章になってしまいましたが…😅
本日も丁寧に取り組んでまいります。